"る"と"られる"。あなたはどちら側になりたいですか
世の中には「究極の2択」と呼ばれる質問が多々あります。
「う○こ味のカレーかカレー味のう○こか」「きのこの山かたけのこの里か」などなど…。
私からしてみればどっちでもいいように感じますが、強いて選ぶのであれば「う○こ味のカレーでたけのこの里派」です。
そんな話はどうでもよくて今回はまたいじめに関する話。
唐突ですが、皆さんに子供がいると仮定して下さい。すでにいらっしゃる方はその子を頭に思い浮かべて下さい。
”その子が通っている学校でいじめが発覚しました。どうやら自分の子もそのいじめに関わっているそうです。もしあなたが親だったら、子供が「いじめている側」と「いじめられている側」、どちらの立場にいてほしいですか。”
これは別に心理テストをしているわけではありません。重松清さんの小説に出てくる話を少しアレンジしたものです。この質問をしたときに、おそらく9割以上の親は「いじめている側」にいてほしいと思うことでしょう。それは単に「いじめをするような残酷な子供になってほしい」と思っているのではなく、「いじめられるような辛い経験はしてほしくない」という親心から、消去法で選んだものだと思います。その気持ちは決して間違っていないと思います。私だって子供にどちらにいてほしいかと言われたらせめて「いじめている側」にいてほしいと思ってしまいます。
いじめの本質的問題は、じつはここにあるのではないかと思います。いじめたくはないし、いじめられたくもない。ただ今目の前でいじめが起きている。でも止めようとして行動したら、自分がいじめのターゲットになるのではないか…。下手に声はかけない方がよいのではないか…。だったら見て見ぬふりをしよう。これをクラスのみんながすることで、いじめ問題は深刻化してしまうのではないでしょうか。
なんだったらいじめられないために、わざといじめられっこをシカトする。これなんてもはやいじめに荷担しているようなものです。罪の意識があるなしに関わらず、それはいじめになります。
もしクラス全員が「いじめられる側」になっても良いと考えることができたらどうでしょうか。きっと子供はいじめが目の前で起きていたら、真っ先に止めに入るでしょう。いじめは起こるべくして起こるのではなく、周りの人たちの潜在意識によっても発生するのです。
いじめは良くないと誰もが分かっているにも関わらず、それでもいじめが未だに発生している理由。それはきっと、いじめという存在を「他人事」のように感じているからではないでしょうか。私には関係ない、私は関わりたくない。そういった思いがいじめから無関心にさせて、いじめを増長しているのです。
「好きの反対は嫌いではなく無関心である」という有名な言葉がありますが、いじめも同じだと思います。無関心が罪だとは言いませんが、周囲が無関心だといつまで経ってもいじめは終わらず、結果的に周囲もいつまでも苦しい思いをすることでしょう。
もし周りでいじめを受けている人がいたならば、声を上げることはしないまでも、無関心を貫くことだけはやめてあげてください。それだけでもいじめが解決するきっかけになるかもしれません。
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